#YoshikazuBlog

気になったコト。気に入ったモノ。 自分の思ったことを徒然に書いてくブログ。

facebookとサヨナラします。

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facebookのアカウントを作ったのは、10年近く前だった。当時はmixiが全盛で、ソーシャルという言葉が本来の「社会的な」という意味でなく、デジタルにおけるコミュニティと同意語となった、いわばSNSの黎明期と言えるタイミングだったと思う。
ポケベルが鳴らなくて」世代の自分に、facebookはこれまでに深く繋がっていた友人以外とのコンタクトをもたらしてくれた。連絡先も知らない古い友人と、再び連絡を取れるという喜びは、うっかりと捨ててしまった「過去の思い出」を拾いなおしたような気分にさせ、今にして思えばちょっとした流行病のように、熱を帯びて高揚していたところもあったように思う。

そんなfacebookに距離を置いてみようとすることにしました。


本当は潔く、facebookを退会しようと思ったんだけど、そうせずにiPhoneiPadからアプリを削除することにしました。
そのポイントを自分自身の気持ちの整理も含めてまとめてみます。

スマホに振り回されてる感の不甲斐なさ
見てないのにテレビをつけてしまっているような感覚。そう言ったら正しくイメージが伝わるだろうか。電車の中、食事中。トイレの中までスマホは付いてくる。朝起きて何を見る訳でもないのに、テレビのスイッチをオン。仕事から帰って、服を着替える前にテレビのスイッチをオンするように、そこに意思はなくなっていて、何はともなしにスマホを開いている自分。この不甲斐なさと言ったら…

変な気遣いをするようになった情けなさ
誰が誰のフィードにコメントしているのか?とか、誰にlikeしているのか?なんてことを、ふと気にしている自分を発見した。直にコミュニケーションしているときにはまるで感じない、この奇妙な気持ちをどう表現したらいいんだろう。簡単にLikeする人、しない人。素直にLikeできる人、できない人。その微妙に異なる表現が、facebook上できちんと伝わることはないし、ましてはそれを正しく理解できることもない。

「ともだち」と言える人以外との関わりの煩わしさ
「ともだちは大切だ」「ともだちは多い方がいい」「ともだちを楽しませ、喜ばせたい」という想いがどちらかというと強いタイプの自分。幼いときの友人との久々の出会いを、ともすれば無理してでも維持しようと努めすぎ、本当に必要なものとか大切なことの判断能力が鈍ってしまったみたいな感じがそこにある。ちっぽけな自分が大切にできる人間関係は、facebookのフレンド数と決してイコールではなかったってこと。

ホンネを言えなくなってしまったもどかしさ
友人だけでなく、お客さんや、会社関係、親類らと繋がることによって、かえって表現を選ぶようになった。ネットワークが広がる一方で、発する言葉は最大公約数を探すような、消極的なものになった。気を使うことは悪いことではないけれど、SNSのために、脳のエネルギーの一部を無駄に使ってしまっているようで、空虚な感覚を持つようになってしまった。


messengerで連絡をくれる人もいるのと、そんな心持ちをわざわざフィードに書き込むのも、気持ちと乖離するところがあったので退会という選択を避けて、アプリを削除することを選んだのが、その理由。

本当に必要なコミュニケーションなら、ダイレクトにコンタクトすればいい。思ったことを思った時に言いたいだけなら、twitterの方が適している。趣味への共感を求めるならInstagramが気楽でいい。
facebookは、、、
住所録のようなものかも。季節の挨拶や近況の変化を伝えるための手段として、付き合っていこうと思う2015年。
数年後の未来に「そんな時代もあったな」なんて思うのかな。いつかまたこの記事を読み返してみよう。